2.袋町小平和資料館
日本銀行広島支店の裏手、袋町停留所の東に袋町小がある。
本川小と並んで、爆心地に最も近い学校である。
★爆心地から460mしか離れていない袋町小学校 (当時、国民学校)は、原子爆弾によって多大な被害を受けました。
学童疎開をしていなかった3年生以下の児童と教師が数多く亡くなっています。
木造の校舎は倒壊し、その後の火災で燃え尽きましたが、鉄筋コンクリートの西校舎は、窓枠は吹き飛ばされ、ガラスは粉々になって壁に突き刺さり、建物内部のものは焼け落ちて、むきだしのコンクリートだけになりながらも、倒壊は免れました。
爆心地との間にビルがあったせいで残ったともいわれています。
木造の家屋が多く、ほとんどの建造物がつぶれ、焼けてしまった町の中で、残った数少ない建物に人々は集まり、袋町国民学校は、避難所・救護所としての役割を果たすことになります。
ビルの陰になったためか、倒壊を免れた校舎は、避難所・救護所としての役割を果たした。
のちに、そこに出入りした人たちの伝言が壁に記されているのが発見され、判読委員会もつくられ、調査されて保存されている。
★1999年、被爆した校舎を建て替えようとしたときに、壁に文字が記されているのが発見されました。
被爆直後にアメリカの研究所から依頼されて、菊池俊吉というカメラマンが広島に入りました。
彼は袋町国民学校も訪れ、壁に残された伝言を撮影していました。
その写真の記憶が人々にあり、発見された文字と結びついたのです。
避難所や救護所に出入りした人々が、ある人は自分の消息を知らせ、ある人は家族の消息を尋ね、ある先生は別の先生への引継事項を書いています。
その手書きの文字に込められた、被爆直後の被災者の思いや願いを考えると、そのまま取り壊すわけにはいきませんでした。
詳しい調査と保存のための作業が行われ、見えにくい文字を読みとるための判読委員会もつくられました。
関係者が捜索され、調査されて、保存されています。
【参考文献】井上恭介『ヒロシマ 壁に残された伝言』集英社新書2003
平和資料館は、市が運営し、シルバーボランティアの方が管理している。
袋町小の児童の平和学習の発表のコーナーもある。
体験記や文学作品ももちろん伝える力は大きいだろう。
ここに残された伝言は、それらと同じ意味で伝える言葉ではない。
悲惨さや被爆の実相を伝えようとするのではなく、生き残ったものが生き続けていくために相手に向かって実務的な内容を書いているものだ。
それを見、読むことで、被爆後の混乱と痛ましさが想像できる。
★勤労動員作業中に被爆した瓢(ひさご)文子さんは、当時、袋町国民学校の高等科1年生でした。
大火傷を負った文子さんは 近くの臨時救護所に収容されていましたが、火傷と膿とそれを覆うガーゼとで、誰だか見分けがつかなくなっていました。その文子さんを気にかけながらも自分自身が原爆症で動けなくなったある先生が、別の先生に文子さんのことを託した伝言が残っています。
再現された文字を読み解くことで、被爆直後の混乱と、その中でも必死で生き抜こうとした人々のようすが想像できます。
★この写真は、柱に書かれた「患者村上」という文字です。
これは何を意味する文字か?
調べていく中で、ある家族の ストーリーがわかってきました。
★村上啓子さんの母は大けがを負って、ここの救護所に収容されていました。
B29の機影に気づいた父に促されて、当時8歳の啓子さんと弟は家の防空壕に飛び込み、助かりました。
台所にいて逃げ遅れた母と妹が瀕死の重傷を負いました。
父は市の職員で、昼間は復興のために市内を飛び回り、夜になるとここに戻って重傷の妻と子の世話をする生活でした。
この柱の下に横たわる母は、失明寸前で全身傷だらけ、知っている人が来ても見分けがつかない有様でした。
だからこの柱に、いわば名札代わりに「患者村上」と書いたと想像されます。
父は、そんな生活の中で、広島市長が読み上げた第1回平和宣言の原稿を執筆します。
成人してからそれらのいきさつを知った啓子さんは、いま、被爆体験を語る活動を続けています。
風化の危機にさらされている戦争体験を継承するには、想像力が大切だが、その想像力を活性化する力が、袋町小平和資料館にはあるといえる。
2007.5.23.
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